君だけが秋めいていた


図書館から一歩外を出ると、肌を焦がすような暑さと共に、競うような蝉の鳴き声に襲われる。もう立秋から1ヶ月以上過ぎているのだから、間違いなく今は秋のはずだ。それなのにこうも暑く蝉が煩いと、季節が半ば意固地になって夏にしがみついているのだと想像してしまう。

夏と不可分な蝉の大合唱には毎年本当にうんざりする。日本人の、いや人類のほとんどがまいっているに違いない。ところで、蝉がこんなに鳴く理由は子孫繁栄のため、雄の蝉が雌の蝉に自分の居場所を知らせるためだという。早い話が求愛行動だ。僕は蝉の鳴き声を鬱陶しいと思いつつも、人間も蝉と同じように、想う相手に自らの存在をこんなにも強く主張できたならどんなにいいだろうかと羨む気持ちも抱いた。正確に言えば、想い人に対して強く主張できない自分を悔いた。彼女を想う長さと彼女との関係は全く比例していない。しかし今さら一歩踏み出す勇気もなく、情けない僕はそれら諸々の事情を全て暑さのせいにした。もはやまともな思考回路などないように思えた。


校舎を後にして駅前のバスターミナルまで歩く。自分が乗るバスを探していると、人混みの中で華奢なシルエットを見つけた。彼女も僕と同じようにバスを探しているようだ。僕は動揺してキョロキョロしてしまう。そうこうしているうちに、遠くにあるぱっちりした目が、僕の落ち着かないそれを捕らえた。彼女は驚いたように微笑み、手を振ってそばに寄ってきた。小動物のようでとても可愛らしい。


「谷原くん」

「久しぶりだね、雛形さん」

おそらく最後に言葉を交わしたときからある程度の時間が経っている。彼女─雛形さんは少し大人びた気がする。といっても見た目は変わっていない。雛形さんは小柄で、どちらかというと童顔なので、高校生だと言っても充分通用するだろう。それなのにいま向き合っている彼女は、どこか大人の色香さえ纏っているように感じた。


「暑くないの?」

僕がこう言ったのは、彼女が季節に不似合いとも言えるグレーのカーディガンを羽織っていたからだ。彼女の大人びた雰囲気はこれのせいかもしれない。僕の青い半袖シャツと比べると、余計に。

「暑いけど、冷房効いてるところ入ると寒いじゃない?だから結局ずっと羽織ってるの」

夏の間に何かあったのだろうか。彼女の雰囲気が変わったのはきっとグレーのカーディガンだけが理由ではない。端的に言ってしまえば、彼女は恋をしたように思えた。そしてその気持ちの方向が、僕の気持ちに対してねじれの位置にあるだろうということもなんとなくわかる。

三者がいたならば、一瞬の間にあれこれ思い込みすぎだと笑い飛ばすだろう。だが僕は至って真剣にこれらの結論を出した。


「夏休み、どこか行ったりした?」

答えからいろいろなことを推測できそうな質問を絞り出すように投げかけた。

「どこも。気になってる研究室の先輩に何回か会っていろいろ教えてもらったぐらいよ」

“気になってる”は、”研究室”と”先輩”のどちらを修飾しているのだろうか。こんな些細なことにいちいち引っかかりを覚えてしまう自分がつくづく嫌になる。

「…そうなんだ。もう研究室のこと考えてるなんてすごいな」

「院って結構繋がりが物を言う、とか聞くじゃない?まあそういうのも考えて、ね」

「どうだった?その先輩は」

僕は卑怯な言い回しをした。あくまで研究室の話を聞きたがっていると見せかけて、雛形さんがその先輩についてどんなことをどんな様子で話すのか探ろうとした。

「すごく親切にたくさん教えてくれたの。安西さんっていうんだけど、未解読文書の解読についてとか、活版印刷術のこととか私が知りたいことをなんでも知ってて、すごく楽しかった」

そう話す彼女の目は心なしか輝いているように見えたし、頰がほんのり朱に染まっていた。これが俗に言う”恋する乙女”ってやつなんだろうか。彼女を恋する乙女にしているのは間違いなくその安西さんとやらだ。恥ずかしくて口が裂けても言えないが、僕がその存在になれないことがどうしようもなく悔しく、悲しかった。

「…へえ。それはよかったね」

落胆を声に滲ませないように努めた。それはつまり敗北を認めたということで、余計に惨めになる。

「本当に楽しかった。今度飲みにも連れて行ってもらうの」

そう言った雛形さんは本当に嬉しそうで、可愛かった。女性は恋をすると美しくなる、とはよく言ったもので、雛形さんは僕が知っているよりずっと綺麗になっていた。皮肉なことに、彼女が僕ではない人に恋をすればするほど彼女の魅力は増し、僕の叶わぬ想いは強くなる。神様は意地悪だ。

「あ、私もう行かないと…こんな暑いところで長々と話しちゃってごめんね。じゃあまた」

会ったときと同じように小さく手を振り、雛形さんはまた人混みの中に消えて行った。僕はそれをどんな顔で見送っているのだろうか。その表情を表現する言葉は、きっと地球上に存在しない。

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今日も相変わらず蝉が煩い。もう9月も終わるということをわかっていないのだろうか。さらに悪いことに、この時期になると瀕死の蝉が地面に倒れていて見た目では生死の判断がつかず厄介だ。倒れている蝉を死んだと思って少しでも触ると突然暴れ出すのは心臓に悪い。早くいなくなって欲しいと願っていた。


逃げ込むように図書館に入り、目的地である5階の図書館研修室へ向かう。課題で使う日本目録規則を取りに行くのだ。なぜ1階のレファレンスカウンターに置かずわざわざ5階に置くのか理解できなかったが、とりあえずそれがないと課題ができないので致し方ない。5限も終わったこの時間になっても図書館研修室にいる物好きはいないだろうと、何も考えずにドアを開けると、そこには予期せぬ先客がいた。

「…………」

僕が何も言わず静かに部屋に入ったのは、その先客が机で眠っていたからだった。

そっと覗くと、机の上にはグーテンベルク聖書についての学術書がいくつか並んでいた。机に突っ伏しているから顔は見えないが、見なくても誰なのかわかる。雛形さんは普段からグーテンベルク聖書に並々ならぬ関心を持っていたし、椅子の背にはあのグレーのカーディガンが掛けられていた。

当然ながら、雛形さんが寝ている姿なんて目にしたことがなかった。あまりに無防備な姿にドキリとしてしまうのは男の性だ。

思わず手を伸ばしてしまう。しかしその手はすぐに引っ込められた。

僕をそうさせたのは彼女の首筋だった。白い首筋に一つだけ血のように紅い花が咲いていた。それが何を意味するのかわからないほど僕も子供ではなかった。

その花は彼女が誰かの所有物であることを生々しく主張し、またその誰かと彼女の間にそういう熱があったこともまざまざと見せつけている。薄々わかっていたことなのに受け入れることができず、経験したことのないような激情が行き場を失う。

どうしようもない感情を抱えたまま僕は部屋を出た。あのままでいたら僕はきっと感情に流されて過ちを犯す。そんなことはしたくなかった。素知らぬ顔をしてあの紅い花のことは忘れてしまえば、ずっと燻っているこの気持ちにも終止符を打てる気がした。現実にはそんなことできるはずがなくても。


外に出ると、やはりまだ蝉は煩い。蝉にはなれないまま、これから太陽がよそよそしくなり、季節が過ぎ去っていっても結局この想いを終わらせることはできない気がした。きっと僕は来年も蝉になれない自分を恨んでいるし、君のことをまだ好きでいるだろう。成長のない僕を取り残して、雛形さんはいくつもの季節をあの人と過ごしてもっと美しくなる。それでも、僕はいつまでも夏なのだろう。ずっと半袖シャツのまま、僕の時間は止まっている。


それなのに、君だけが秋めいていた。肌に感じる風がどうしようもなく切なかった。