Teacher Teacher

「お待たせ致しました~~、バニラシロップを追加したアイスのスターバックスラテ、トールサイズです」

店内によく通る明るい声が、自分の注文したドリンクを指していると気づいた私は、カウンターに歩み寄った。

「ありがとうございます!」

バニラシロップを追加したアイスのスターバックスラテは、店員さんの満面の笑みと一緒に私の手に渡った。


かくいう私も実はスターバックスでバイトをしているが、働いているからといって夏になってもフラペチーノを買う気にはならない。なぜならどう考えてもぼったくりだからだ。申し訳程度のミルクとシロップ、あとの大部分は氷でできたあのシロモノにわざわざ600円も700円も出す気には到底なれなかった。こんなことを口に出して言ったら間違いなく怒られるが、”インスタ映え”するからといって高いお金を払ってフラペチーノを購入し、必死で写真を撮っている人達の気が知れない。


今日も店内では色とりどりのフラペチーノが人々の手に握られている。7/2に発売されたばかりの”ティバーナフローズンティーハーバルレモネード”はその中でもとりわけ多かった。世間の人々というのは自分が思っている以上にスターバックスのフラペチーノが好きなのだと、半ば感心するような気持ちで私はドアの近くの席に座った。そしておもむろにバッグからシルバーのMacBook Proを取り出した。

“意識高い系”と揶揄されがちな”スタバでMac”をやりたいわけでは決してない。偶然 Macだったというだけで、Word機能さえ搭載されていれば、機種はなんでもよかった。つまり”スタバでsurface”になろうが”スタバでvaio”だろうが一向に構わなかったのだ。


なぜWord機能が必要なのかというと、レポートを書かなければいけないからだ。私は木曜2限の”図書館の制度と経営”という授業を履修していて、その授業で課されたレポートである。4枠限定で、授業内で2人1組のプレゼンをすればそのレポートを免除されたのだが、プレゼンを一緒にできるような友達はいないし人前に出るのはあまり好きではない、などと考えているうちにプレゼンをできる4枠はすぐに埋まってしまった。ということは、指定された文献を3件以上読んだ上で、3000字以上のレポートを書かなければならない。なかなかに骨の折れる作業である。


この授業の担当は松井先生なのだが、つい先日私は彼のゼミに所属することが決まった。と言っても実は第1希望の安西先生のゼミに落ち、おそらく第1希望の学生で定員が埋まったであろう第2希望の池山先生のゼミにも漏れ、なし崩し的に第3希望の松井先生に行き着いたという顛末である。それでも、松井先生は本当に優しい先生だし、ゼミを決める前にメールで質問をしたときも懇切丁寧に返信してくれていて、私はこの結果になんの不満も抱いていない。


そんな優しい松井先生だが、課題に関しては全く優しくなかった。まず3件以上の文献を読むこと自体が私にとってはかなり面倒だし、その概要をまとめた上で、3000字以上論述しなければならない。公立図書館における課金と無料原則について3000字も書くことがあるとは思えないが、面倒くさいと嘆いていても提出期限は刻々と迫ってくる。そういうわけで、私は重い腰を上げてこのスタバに来た。今日はとても暑いので、涼しい店内で冷たい飲み物を飲みながら作業したかったということと、スタバなら社員割でドリンクを買えるという理由でスタバを選んだ。


Macを開き、Wordを起動する。冒頭に”図書館の制度と経営 期末レポート”とタイトルを打ち込む。続けて氏名と学籍番号、専攻と学年を書く。1年生のときからこの一連の作業が私にとって一種の儀式のようになっていて、なぜかわからないがこれをしないとレポートを書く気がしないのである。

そこまで打ち込んだ私は図書館で借りてきた本を3冊取り出す。この3冊こそが今日私の肩にもレポートにも負担をかけている3件の文献である。気が進まないながらも1冊を手に取り指定された箇所を探していると、視線の端に見たことのある顔が入ってきた。


それは他でもない、この骨の折れるレポートを課してきた松井先生だった。教室での姿と同じくスーツを着ていたが、襟元がいつもより開いていて暑いのか腕を捲っていた。髪型も、いつものようにぴっちり固められているわけではなく、強風のせいか多少乱れていた。たったそれだけなのに、普段なら考えもしないけれど、彼が”男性”なのだということを今まざまざと見せつけられたような気がした。学校にいるほとんどの時間閉じ込められているあのメディア5階の研修室では気づかなかった。


理由はわからないけれど、私の手は勝手にMacを閉じてバッグにしまい、それを肩に掛けてもう片方の手に大量の結露がついたラテを持って急いで店外に出た。焦りすぎてラテが溢れそうになったが、構わず走って松井先生に駆け寄る。


「……松井先生」

息を切らしながら話しかける。

目の前の松井先生は振り向き、私の顔を見て怪訝そうな表情を浮かべた。

「…あなたは……」

「私……水木です。水木華奈です。慶應の、図書館・情報学専攻の……」

「……………ああ」

松井先生は暫く考えたのち、ようやく合点がいったというように頷いた。

「確か、先日発表されたゼミの振り分けで、私のゼミに所属することになっていましたね。水木さん、何か御用でしょうか?」

「…………」

そう言われて、私はこの行為の意味がわからないままあのスタバから飛び出してきたのだと気づいた。

少し考えてみたが、理由などないように思われた。ほとんど本能的なものだったし、尤もらしい理由があったとしても、それを考えることはナンセンスな気がした。


考えを巡らせているうちに、松井さんは少し困ったような笑みを浮かべて、

「何もなければ、私はこれで。…また授業でお会いしましょう」

松井先生はそう言ってその場を立ち去ろうとした。当たり前の反応だった。いくら教え子とはいえ、自分に用もない相手に構い続けているはずもない。頭ではそうわかっているのに、身体の奥底から湧き上がる衝動を止めることができず、それは手に伝わって松井先生の腕を掴み引き止めていた。

「………水木さん」

彼を引き止めたことによりさらに至近距離で彼を見ることになったが、掴んだ腕に浮き上がる血管やその先の意外にも節くれだった手、少し肌蹴た白いシャツから覗く素肌に思わずドキドキしていた。地味だと思っていた髪型も、風で乱れた今は色香すら纏っているように感じる。

さすがに不審に思ったのか、松井さんは眉を顰めてこちらを見ている。

「どうしたんですか」

自分でもわかっていなかった。彼の授業は2年生のときから受けているけれど、彼に邪な感情を抱いたことなど一度もなかったし、そもそも男性だと意識したこともなかった。けれど今の行為はそのことを全く裏付けていないし、むしろその逆を証明しているようなものだ。しかし冷静になってきた頭では、この行為が、”普段は頭のてっぺんから爪先まできっちりしている松井先生の、街で偶然見かけたプライベートの姿に思いがけずときめいてしまった”からだとわかり始めていた。

けれども、そのことを口にしてしまえば松井先生が笑い話にしてこの時間は終わってしまう。それをなぜか恐れる私は何かに操られているかのように言葉を紡いだ。

「どこか……行きましょう」

そう呟いた私は松井先生の腕から手を離し、あろうことか指を絡めた。脳内に危険信号が発せられ、警告音が鳴っている。以前授業で松井先生が御息女の話をしていたのははっきり覚えているし、何より絡めた指に冷たい金属の感覚があった。彼を縛る無機質な輪が、異常な程の冷たさで私の狼藉に抵抗しているように感じた。

それでも私は、パパより年下ならいいか、と理解不能な理論でこの行為を正当化した。

「何を言って……どうかされたのですか」

なぜ逃げ腰なのか。なぜ私とはこんな風に距離を置くのか。いくら成人済みとはいえ、やはり教え子は恋愛対象外なのだろうか。プライベートはどうしてこんなによそよそしいのだろう。

頓珍漢な疑問で脳内が埋め尽くされる。

「本当に、どうされたのですか?大丈夫ですか?」

もはや、彼を困らせたいだけだった。あの生真面目で、お堅い公務員のような松井先生の顔が、自分の行為によって困ったように歪められるのがあまりに愉快だった。

いつも私は教えられる側の立場だが、今日だけは松井先生に愛について教えてあげたいと思った。しかし自分は恋愛経験も皆無に等しいし、教えられるようなことは何もない。そのくせ、自分に全てを任せて欲しいなどと自惚れた欲望さえ持っていた。

常識は、忘れて欲しい。今日だけは独り占めしたい──

情動に突き動かされ、指を絡めた手を自分に引き寄せようとすると、握っていた手が突然離された。

「誰にでもこんなことをなさっては、立派な図書館員になれませんよ」

その言葉で一気に我に返った私は、松井先生にとんでもないことをしてしまったと今さら気づいた。松井先生の授業の単位は落とすかもしれない、ゼミを追い出されるかもしれないなどと脳内を駆け巡る遅すぎる後悔を知ってか知らずか、松井先生は寛容な微笑みを浮かべた。

黙ったままの私に、松井先生は微笑んだまま、

「それではこれで。…お気をつけてお帰りください」

どことなく駄々っ子を宥めるような口ぶりでそう言うと、今度こそくるりと背を向けて、駅の方向へ歩いて行ってしまった。その背中は、やはり生真面目で定規のようだった。

私は何をしていたのか──

スタバで松井先生の姿を見かけてからは本当に衝動的に動いていた。氷がすっかり溶けてしまったラテが、あの魔法にかけられたような時間の長さを物語っていた。

松井先生の後ろ姿が陽炎のように揺らめいた。それと同時に、私の視界も朧げになった。熱中症か脱水にでもなったんだろうか──


「…水木さん。水木さん」

「………………………っ!」

目が覚めると、そこは見慣れた図書館研修室だった。咄嗟に周りを見回したが、研修室には私と私を不安げに覗き込む松井先生しかおらず、その状況に戸惑う。

「あの…………」

時計を見てみると針は6時を差していた。外の暗さを見ると、今は午後6時のようだ。

机にMacが開かれていることに気づき、画面を見ると”図書館の制度と経営 期末レポート”という文字と、自分の氏名と学籍番号、学年と専攻だけが打ち込まれたWordが開かれていた。

私は土曜日にわざわざキャンパスに足を運び、さらに誰も行かないようなメディア5階の研修室で松井先生の授業のレポートを書いていたのだ。

「仕事があったので寄ってみたら、水木さんが眠っていたので。もう閉館の時間ですよ」

「す、すみません………」

(夢だったのか……)

松井先生と2人きりという状況に戸惑いながらも、うだるようなあの暑さの中、松井先生を誘うという狼藉をはたらいたことは全て夢の中の出来事だとわかり、胸を撫で下ろした。


「か、帰ります!すみませんっ」

胸を撫で下ろすと同時に自分が松井先生にしたことが鮮明に思い出されてしまって、松井先生を変に意識してしまう。それをかき消したい私は急いで机の上のものを無造作にリュックに詰め込み、そそくさと研修室を出た。


「お気をつけてお帰りください」

夢の中と同じ台詞が背後からかけられた。そんな気遣いに溢れた言葉に対しても、とにかく急いでここから出たい私は申し訳程度に頭を下げて、逃げ出すようにメディアを後にした。


「夢か………」

中庭で佇み呟いたその声は、虚空に消えていった。さっき話したときにはなかった色香が、夢の中の松井先生には確かにあった。でもそれが、肌蹴たシャツや意外に男らしい腕のせいだとはなぜか思えなかった。


あのときと同じように視界の端に松井先生が入った。こちらには気づいていないその姿は、少しの色香も纏っていないし再び私が不思議で愚かな衝動に駆られることもなかった。


「…いつもと違っていたのは、なぜ?」

届くことのない呟きを遠い背中に投げかけて、私は歩き始めた。”図書館の制度と経営”のレポートを書かなければならない。夢で感じたよりももっと、3冊の文献が重く肩にのしかかるような感覚がした。


夢の中の松井先生がいつもと違って色香を纏っているように思えたのも、自分が理解しがたい衝動に駆られたことも、夕暮れの空がどこまでが茜色で、どこからが紅掛空色なのか、というぐらい曖昧でわからないものだった。

空は瞑色になりかけていた。