矛先

 

先日、M-1グランプリが開催された。

漫才を見るのが好きで、卒論のテーマにまでM-1を選んだ私は、半ば使命感すら覚えて最初から最後まで視聴した。

 

今大会は過去最高と言っても差し支えないほどレベルが高く、とても充実した良い大会だったと個人的には思う。

 

しかしそんな中、これまた個人的に一点だけ残念なことがあった。

それは、これまで確固たる愛情を抱いていたはずの和牛に対する感情が、行き場をなくしてしまったことである。

 

私は元々、和牛のことは嫌いだった。高く評価されているネタの良さが私には理解できなかったからだ。決してマイノリティを気取ろうとしていたわけではない。感性は人それぞれであって然るべきなのだから。

嫌いだったはずなのに、あるとき何気なく見ていた特番に和牛が出ていて、それまで気にしたこともなかったツッコミの川西氏に目を奪われてしまった。中性的な顔立ち、上品な声色と話し方、何から何まで心惹かれた。私が和牛に熱を上げていったのはここからだ。ある日突然思いついたように、就活の予定をずらしてまで新宿のルミネに漫才を見に行ったり、なんと単独ライブで福岡までも躊躇なく行ったりした。そしてあまり大声で言える話ではないが、和牛の二次創作も数え切れないほど読んだ。確実に、間違いなく、私は和牛のことが「好き」だったし、これらの全てが楽しかった。

 

けれど、その「好き」にはずっと違和感を覚えていた。なぜなら、私の「好き」は本来ならば漫才師にとって最も大事な指標であるはずの漫才に基づいたものではないからだ。最初は容姿が「好き」というだけだったが、二次創作をきっかけに、2人の関係性や距離感が「好き」になった。これらの「好き」はいずれも、漫才師としての本質には一切触れないものだった。私に限らず、和牛ファンにはこのような考えの人が多い。Twitterで検索しても、和牛のネタの内容に関するツイートよりも、2人のこんなやりとりが最高だった、今日の番組でも距離が近かった、などという感想が圧倒的に多く、和牛は本当に漫才で評価されているのかわからなくなるほどだった。かくいう私も、TwitterInstagramのストーリーで何度もこのような発言をしている。

 

だが、このようなファン(もちろん私も含む)が、和牛をダメにしたと思っている。

かつて島田紳助氏が言っていた。「売れ出すと、劇場にキャーキャー女の子が来よんねん。これが邪魔やねんな。こいつらが俺達をダメにしていくから。」「なんでかって言うたら、こいつらを笑わすことは簡単やから、こいつらを笑わしにかかってまう。」

和牛の現状そのものと言っても過言ではない。劇場にやって来るのは大半が女性ファンだし、彼女達が期待しているのは「おもしろい漫才」ではなく「萌え」だ。その気持ちは大いに理解できるし、自分自身にもそのような感情があったことは充分自覚している。そして残念ながら、和牛はその期待に過剰なほど応えてしまった。漫才中に何かのポーズをとったり、相方を抱きしめたり、番組中に異常とも言える距離感で接したり、枚挙にいとまがない。それを見たファンはまた熱狂する。その繰り返しだった。その結果が今年のM-1グランプリだったと思う。

 

敗者復活戦で見事勝ち上がり、そのまま決勝戦に進んだ和牛は「不動産」のネタを披露した。川西氏が部屋を探す人、水田氏が不動産屋という設定である。途中までは水田氏がすでに人が住んでいる物件ばかりを紹介する展開だったが、終盤には幽霊屋敷のような部屋に行くことになる。普通に考えたらありえない話だが、それまでに散々人の住んでいる部屋を紹介されてきた川西氏は、幽霊屋敷なら確実に人が住んでいないという意味で、しきりに「いいね!」と叫ぶ。

私はそれを見たとき、悲しみすら感じた。「いいね!」と叫んで腰を振る様子は、幅広い層をターゲットにしたものとは到底思えなかった。むしろ先述のような、「萌え」だけを求めるファン層を喜ばせようという、非常に安直な発想に基づいていたと思う。

 

いつかこのようなことになる、いやむしろ、すでにこうなりかけている、ずっとそう思っていた。だから離れたかった。嫌いになりたいと何度も思った。だけど私1人が好きでいることをやめたところで何にもならないし、そもそもお笑い芸人には得てしてこのような傾向があると前々から感じていた。だからこそ、島田氏もあのような発言をしたのだと思う。

 

M-1グランプリで和牛の漫才を見たときは軽く失望すらした。けれど同時に、彼らは立派な被害者でもあるのだ。彼らは彼ら自身が一番大切にしているはずの指標で正当に評価されないことが多い。漫才を生業とする人々の評価軸を、容姿や2人の関係性といった極めて表面的な要素とすることはあまりにも酷だし、ある種の冒涜であると思っている。

 

だから私は、和牛に対する感情をどう整理すればいいか、そして悲しみや失望、わずかな軽蔑の矛先をどこに向ければいいのかわからない。答えは出ないまま、確かに抱いていた愛情や喜びで彩られた思い出を、愛していた過去の自分ごと否定してしまわないように、必死になるしかないのだ。