No Longer Human

 

卒論も終わったので、『人間・失格〜たとえばぼくが死んだら』というドラマを見た。

“懐かしのドラマ”だとか”伝説のシーン”とか、そういう類の言葉を謳った番組では必ずと言っていいほど登場する作品である。同じくその内容の過激さでたびたび話題に上る『高校教師』というドラマを手がけた野島伸司氏が脚本を担当しているので、然もありなんといったところであろうか。

 

1994年の夏クール(7-9月)にTBS系の「金曜ドラマ」枠で放送された。KinKi Kidsのイメージがあまりにも強く、主演だと勘違いされることも多いが、あくまでもドラマ全体の主演は赤井英和である。

 

このドラマは情報量が多すぎるので、簡潔に言い表すことが私にはできないが、まず間違いなく明るい話ではない。現在よりもコンプライアンスが遥かに緩かったはずの当時ですら批判が殺到したという。残念なことに1話からいじめや体罰のオンパレードで、しかもその描写が半端ではない。所持品を隠されるとか教科書に落書きされるとかそのレベルで済めばいいが(決してよくはないけれど)、このドラマはそんなに甘くない。襟足をライターで炙ったり、給食に釘や鉛筆を削りカスを入れたり、プールで失神寸前まで水中に沈めたりと、もう書くだけできついものばかりである。中でも精神的にかなりキてしまったのは、手足を縛り、口をガムテープで塞ぎ授業中に掃除用具のロッカーに閉じ込め失禁させるシーンである。あまりにショッキングだったので映像を一時停止してしまった。

 

さて、この壮絶ないじめのターゲットとなったのは転校生であり、大場誠という名前なのだが、この役を演じたのが、他でもない堂本剛くん──私の推し──である。

 

そもそも、こんなつらい思いをしてまでこのドラマをわざわざ見ようとしたのはドMだからではなく、単純に剛くんが見たかったからである。放送当時14歳だった彼は思春期真っ只中、可愛らしさが爆発している。彼自身の少し影のある雰囲気と、この役柄との親和性が高すぎて、誠役に剛くんをキャスティングした人に勲章を授与させていただきたいとさえ思う。

 

そして剛くんの相方である堂本光一くんももちろん出演している。彼は誠のクラスのクラス委員で、周りから一目置かれる存在の優等生・影山留加を演じている。彼の容姿は15歳にしてすでに完成されており、世の女性を虜にする王子様の片鱗が見える。ただ、やはりこのぐらいの年齢によくあることだが、肌や唇が乾燥している様子が見て取れて、保湿クリームを塗ってあげたい気持ちになる。

 

この誠と留加の関係性も、本作が衝撃的と言われる理由の一つである。誠は転校初日に留加と最初の友達となるが、次第に留加は友情を超えた、誠への愛情に目覚めていく。そしてある日、体育教師による体罰のせいでプールで気を失い倒れた誠に留加は顔を寄せる。感情の読めない瞳が揺れ、そのまま2つの唇が重なる。これはTVでも何百回と取り上げられてきたシーンなので、ここだけを切り取ったら見たことがある人も多いと思われるが、やはり前後の文脈を知った上でこのシーンを見ると、ただ衝撃的なだけではなく、切なさや儚さ、それらにより拍車のかかった耽美さが垣間見え、やるせない気持ちになる。

 

なぜなら、このキスシーンがあるのは3話の最後なのだが、4話以降は教師の策略により留加さえも誠を率先していじめるようになってしまうからである。「世界中が君の敵になっても僕だけは味方だよ」というJ-POPにありがちな歌詞よろしく、クラス中から誠がいじめられていても留加だけはひっそりと寄り添う。視聴者としてはこのまま2人だけの世界が広がればいいとひたすら願うが、そうは問屋が卸さない。

 

ある日の授業中、誠は教科書の中に写真が1枚挟まっているのを見つける。それは誠とも親交のあった留加の母親の悪質なコラージュ写真で、首から下がグラビアアイドルか何かの肉感的な身体になっていた。この写真が2人の歯車を狂わせることになる。もちろんこの写真に誠は一切関与していないにも拘らず、策略により誠に母親を辱められたと思い込んだ留加はクラスメイトの1人を屋上に呼び出し、唐突に彼の腕を折る。そして留加は、誠にやられたと言うようにと彼に命令し、誠は身に覚えのない罪を着せられることになる。この一件で誠に対するいじめはエスカレートし、先述したような、見ていると心臓がえぐられる場面が多く出てくる。

 

さらには学校だけではなく家庭でも、悲劇は容赦なく誠を襲う。誠は理解者であったはずの父親(赤井英和)からも信用されなくなり、朝になって登校拒否しようとしても父親に殴られ、強制的に学校へ行かされる。

 

まさに四面楚歌の状況に追い込まれ、精神的な限界を迎えた誠は逃げるように転校前の学校がある神戸に向かう。誠は実母を亡くしており、そのお墓があるのも神戸である。誠がお墓の前でうずくまり泣いていると、なんと東京からお墓詣りに来た父親が現れる。これは父親が誠の行動を読んだのか直感なのかはわからないが、とにかくこのお墓の前で2人は遭遇する。涙にくれる誠の姿を見て、父親は「元の学校に戻るか」と言葉をかける。その言葉が、永久凍土と化していた親子の関係を溶かし、2人は昔のように仲の良い親子に戻る。

神戸の街で、親子2人の束の間の楽しい時間を過ごし、夜になって東京へ帰る道中、誠は神戸の学校には戻らないと父親に宣言する。その理由は神戸に戻ると東京で父親が経営するラーメン屋を閉めなければいけなくなり、借金が残ってしまうことを誠が憂慮したためであった。なんとも健気な少年である。

 

翌日、誠は宣言通り登校する。それも、いじめられていたなんて信じられないような笑顔で。

しかし、悲劇は終わっていなかった。誠は屋上に呼び出され、そこでは残酷にもかつて愛情を交わしたはずの留加が誠に注射器を突きつける。結局留加は腕に針を刺す寸前で怖気付き未遂に終わるが、1人の生徒が留加から注射器を奪い誠を追い詰める。恐怖のあまり、誠は足場の悪い屋根の上まで逃げてしまう。その姿を見た留加は以前の想いを蘇らせたのかそれともただ単に深層にある正義感がそうさせたのか、誠に手を差し伸べる。だが誠は留加を信じることができない。誠は留加の手を拒み続け、最後は足を滑らせて転落してしまう。

誠は病院に搬送され、手術により一命は取り留めるものの、その後容態が急変し死んでしまう。周りの人間が死人に口なしとその死を嘲笑う中、留加は精神的なショックを受け自傷行為に走る。それもリストカットなどという生温いものではなく、頭から血が出るまで机や壁に頭を打ち付けるという激しいものである。やがて誠の死は自分のせいだと自責の念に駆られた留加は昏睡状態に陥り、最終的には幼児退行してしまう。

深い眠りに落ちながらも、無意識に誠の名前を呼ぶ姿は胸が張り裂けそうになる。その心には誠への愛情は残っていたのだろうか──

 

誠は命を落とし、留加は命はあるものの精神が崩壊する。この結末およびここに至るまでの残酷な過程を背景にもう一度2人のキスシーンを見ると、それはジャニーズ事務所所属の、14歳と15歳の少年がキスをするという表面的な衝撃や視覚的な美しさのみをもって語ることは到底できないだろう。最上級の愛情表現が、薄れていく愛情と募る不信の前触れとなっているのだから。そう考えると、この一見始まりのように見えるキスが私には別れのキスに見えてしまい、突如として絶望的なシーンになる。

 

しかしこの絶望さえ美しいと感じてしまうのは、KinKi Kidsの才能や2人(ftr)の雰囲気のおかげだと思わずにはいられない。だからやはりこのドラマにKinKi Kidsをキャスティングした人のセンスは神がかっていると思う。

 

ドラマ自体は全12話であり、いま語ったのは1-5話中心である。6話以降は誠の父親が誠のいじめに関与した人間に次々と復讐していくという内容であり、こちらはこちらで壮絶である。例を挙げるとキリがないが、誠に執拗な体罰を加えていた体育教師は、誠の父親によりラーメン屋の岡持で殴られ弱ったところを、誠にしたのと同じように、プールに無理やり沈められて殺される。確かに受けるべき罰を受けたのだが、これがカタルシスになるかと言われれば微妙である。これでも足りないぐらいのことを誠にしていたのに、むしろ気が重くなってしまう。 

 

最終回は体育教師を殺害した誠の父親が出所し、妊娠していた誠の継母と生まれた誠の異母弟、そして誠を見守り続けていた誠の担任教師が7年の年を経て再会する場面で終わっており、一応ドラマとしては僅かながら希望の見えるラストなのだが、誠と留加に関してはひたすら悲しいだけである。愛情で結ばれていたのはほんの一瞬、その後は文字通り地獄のような日々が続く。留加は誠をいじめてはいたが、それも留加に歪んだ想いを寄せる教師の策略であり、留加も被害者なのである。どう頑張っても救いようのない展開である。それでも(何度も言うが)、そこにある種の美しさや愛しさを見出させてくれたKinKi Kidsにも制作陣にも心から感謝している。

 

TVで何度も特集されてきた誠と留加のキスシーンにつられて見たものの、想像以上に苦しいドラマだった。けれどやっぱり見てよかったし定期的に見返したいとも思う。個人的にはDVDのVol2とVol3にそれぞれ収録されている剛くんと光一くんのインタビューが大好きである。どちらも40秒程度しかないのだが、まだ声変わりしていない声とあどけない笑顔が、ドラマを見て受けたショックと日頃のストレスを全て癒してくれる。特に光一くんのインタビューは画角も答え方も『清純派ピチピチの18歳・待望のデビュー』などと銘打たれた作品を彷彿とさせるので余計に興奮する。

 

この作品は誠と留加以外にも見どころがあるので、それを見て壮絶なシーンの息抜きにして欲しい。

まず誠と留加の担任教師・森田千尋を演じる桜井幸子がとにかく可愛い。少し垢抜けない感じがいじらしくて守ってあげたくなる。誠と留加を裏で追い詰めたのは加勢大周演じる新見という教師なのだが、新見と千尋は序盤で結婚を前提として付き合うことになる。千尋が家に来た新見のために手料理を振る舞うシーンでは、新見が「エプロン似合うね。学校の服装よりも、ずっと」と千尋のエプロン姿を褒めるのだが、このときばかりは悪役の新見に心から同意した。ドラマではもちろん描かれていないが、この夜2人はキッチンでエプロンプレイをしたに違いない。

もう1つは、件の体罰体育教師の女装姿である。彼は40歳を過ぎても結婚できず、頻繁にお見合いに行っているのだが、その外見からか性格からか、悉く失敗している。いつものように失敗に終わったお見合いの帰り道、自棄になった彼は女装クラブに向かう。そこで「大丈夫。アタシは普段は大蔵省に勤めてるの」というパワーワードで迎えられた彼は俄然乗り気になり、クレオパトラカットのウィッグをつけ化粧もばっちりして、女物の服に身を包みコンビニでの買い物を決行する。周りの人は明らかに気づき引いているが、好奇の視線をものともせずむしろ心なしか興奮した様子で歩く彼の姿は誰得なAVを見ている気持ちになって少しだけ心に余裕ができる。

 

学生時代の時間に余裕があるときにこの作品を見ることができてとても嬉しかったし、最近になって突然沼に落ちてしまったKinKi Kidsをもっと好きになることができて本当によかった。2020年が始まってすでに10日が経ったが、今年はKinKi Kidsに全力で愛を注ごうと固く誓い、雨のMelodyを聴きながらこれを書いている。

 

 

 

 

 

 

 

矛先

 

先日、M-1グランプリが開催された。

漫才を見るのが好きで、卒論のテーマにまでM-1を選んだ私は、半ば使命感すら覚えて最初から最後まで視聴した。

 

今大会は過去最高と言っても差し支えないほどレベルが高く、とても充実した良い大会だったと個人的には思う。

 

しかしそんな中、これまた個人的に一点だけ残念なことがあった。

それは、これまで確固たる愛情を抱いていたはずの和牛に対する感情が、行き場をなくしてしまったことである。

 

私は元々、和牛のことは嫌いだった。高く評価されているネタの良さが私には理解できなかったからだ。決してマイノリティを気取ろうとしていたわけではない。感性は人それぞれであって然るべきなのだから。

嫌いだったはずなのに、あるとき何気なく見ていた特番に和牛が出ていて、それまで気にしたこともなかったツッコミの川西氏に目を奪われてしまった。中性的な顔立ち、上品な声色と話し方、何から何まで心惹かれた。私が和牛に熱を上げていったのはここからだ。ある日突然思いついたように、就活の予定をずらしてまで新宿のルミネに漫才を見に行ったり、なんと単独ライブで福岡までも躊躇なく行ったりした。そしてあまり大声で言える話ではないが、和牛の二次創作も数え切れないほど読んだ。確実に、間違いなく、私は和牛のことが「好き」だったし、これらの全てが楽しかった。

 

けれど、その「好き」にはずっと違和感を覚えていた。なぜなら、私の「好き」は本来ならば漫才師にとって最も大事な指標であるはずの漫才に基づいたものではないからだ。最初は容姿が「好き」というだけだったが、二次創作をきっかけに、2人の関係性や距離感が「好き」になった。これらの「好き」はいずれも、漫才師としての本質には一切触れないものだった。私に限らず、和牛ファンにはこのような考えの人が多い。Twitterで検索しても、和牛のネタの内容に関するツイートよりも、2人のこんなやりとりが最高だった、今日の番組でも距離が近かった、などという感想が圧倒的に多く、和牛は本当に漫才で評価されているのかわからなくなるほどだった。かくいう私も、TwitterInstagramのストーリーで何度もこのような発言をしている。

 

だが、このようなファン(もちろん私も含む)が、和牛をダメにしたと思っている。

かつて島田紳助氏が言っていた。「売れ出すと、劇場にキャーキャー女の子が来よんねん。これが邪魔やねんな。こいつらが俺達をダメにしていくから。」「なんでかって言うたら、こいつらを笑わすことは簡単やから、こいつらを笑わしにかかってまう。」

和牛の現状そのものと言っても過言ではない。劇場にやって来るのは大半が女性ファンだし、彼女達が期待しているのは「おもしろい漫才」ではなく「萌え」だ。その気持ちは大いに理解できるし、自分自身にもそのような感情があったことは充分自覚している。そして残念ながら、和牛はその期待に過剰なほど応えてしまった。漫才中に何かのポーズをとったり、相方を抱きしめたり、番組中に異常とも言える距離感で接したり、枚挙にいとまがない。それを見たファンはまた熱狂する。その繰り返しだった。その結果が今年のM-1グランプリだったと思う。

 

敗者復活戦で見事勝ち上がり、そのまま決勝戦に進んだ和牛は「不動産」のネタを披露した。川西氏が部屋を探す人、水田氏が不動産屋という設定である。途中までは水田氏がすでに人が住んでいる物件ばかりを紹介する展開だったが、終盤には幽霊屋敷のような部屋に行くことになる。普通に考えたらありえない話だが、それまでに散々人の住んでいる部屋を紹介されてきた川西氏は、幽霊屋敷なら確実に人が住んでいないという意味で、しきりに「いいね!」と叫ぶ。

私はそれを見たとき、悲しみすら感じた。「いいね!」と叫んで腰を振る様子は、幅広い層をターゲットにしたものとは到底思えなかった。むしろ先述のような、「萌え」だけを求めるファン層を喜ばせようという、非常に安直な発想に基づいていたと思う。

 

いつかこのようなことになる、いやむしろ、すでにこうなりかけている、ずっとそう思っていた。だから離れたかった。嫌いになりたいと何度も思った。だけど私1人が好きでいることをやめたところで何にもならないし、そもそもお笑い芸人には得てしてこのような傾向があると前々から感じていた。だからこそ、島田氏もあのような発言をしたのだと思う。

 

M-1グランプリで和牛の漫才を見たときは軽く失望すらした。けれど同時に、彼らは立派な被害者でもあるのだ。彼らは彼ら自身が一番大切にしているはずの指標で正当に評価されないことが多い。漫才を生業とする人々の評価軸を、容姿や2人の関係性といった極めて表面的な要素とすることはあまりにも酷だし、ある種の冒涜であると思っている。

 

だから私は、和牛に対する感情をどう整理すればいいか、そして悲しみや失望、わずかな軽蔑の矛先をどこに向ければいいのかわからない。答えは出ないまま、確かに抱いていた愛情や喜びで彩られた思い出を、愛していた過去の自分ごと否定してしまわないように、必死になるしかないのだ。

 

 

【”お幸せに”は新郎新婦だけのものですか?】

   私には恋人がいないし、しばらくできそうにもない。しかし、恋人がいなくてもそれ以外の人間関係は非常に充実していてとても楽しく日々を過ごしている。これは決して負け惜しみではない。

   とは言っても、私ももう22歳である。早いかもしれないが、少しずつ結婚を意識しつつある。そんな中、1つの疑問を抱くようになった。

   それは、結婚が一番の幸せなのか、ということである。

   以前私は冗談混じりで、母親に「もし私が結婚できなくて、そしたら孫の顔は見れないけど、それでも失望しない?」と尋ねた。すると母は、「何も結婚だけが幸せじゃない。あなたが社会人として自立できていて幸せならそれでいい」と言葉をかけてくれた。そのとき、母親の言葉に感激すると同時に、無意識のうちに幸せを結婚と結びつけている自分に気がついたのである。

   結婚とは、平たく言えば自分が一番愛する人と一緒に暮らすということだ。”結婚は人生の墓場”という表現もよく耳にするが、それでも自分が愛する人と時間を共にできるのだから、相手への気持ちがある限りそれは素晴らしいことに違いない。

   しかし、何も結婚”だけ”が幸せとは限らないのではないか。

   例えば、愛する(≒大好きな)人と時間を共にできることがよいのだと言うなら、大好きで心が通じ合っている友達と一生シェアハウスをして暮らしていく、ということだって本人達からすれば最高の”幸せ”であるはずだ。それでも、結婚ではなくそのような決断をした彼らもしくは彼女らに対して、“お幸せに”という人はほとんどいないだろう。あるいは、誰かと一緒に生活する人生は選ばず、自分の仕事や趣味に生きていくという決断をする人だって世の中にはいる。そのような人達も、世間から批判こそされないが、祝福されるということもおそらくないだろう。

   このような書き方をしてきたが、私は決して結婚を否定しているわけではない。第一、両親が結婚してくれたから自分は生まれてくることができたし、今までに出席させていただいた結婚式では、新郎新婦はこれ以上ないほど幸せそうな表情をしていた。

   日本の世の中には未だに結婚を一番の幸せと見なす風潮がある(気がする)。これは、日本の少子高齢化社会が背景にあって、結婚しなければ子供を儲けることができないという事情があるためにある意味仕方ないかもしれない。それでも、人間には当然自分の人生を自由に生きる権利があるのだから、各人がどんな選択をしてどのような人生を歩んだとしても、それは(人に迷惑をかけない限りは)結婚と同等に祝福されるべきなのではないか。 

   日本の社会はまだ、どんな人生にも無条件に”お幸せに”と言えるほど優しくないのかもしれない。

 

【お笑い芸人がモテると思う理由】

   

   突然だが、私は和牛の川西賢志郎(以下「川西氏」)が好きである。和牛といえば、毎年12月に開催されるM-1グランプリで3年連続準優勝という実績を残した実力派お笑いコンビで、丁寧に作り込まれたネタと見事な演技力で観客を魅了してきた。そしてそれだけではなく、ツッコミ担当の川西氏はその端正な顔立ちから、他の多くの芸人に「吉本でいま一番人気がある」と言わしめる女性人気を誇っている。かくいう私も、冒頭で述べたように彼の容姿に惹かれた1人である。

   川西氏のみならず、最近ではアイドルのような人気を獲得するお笑い芸人が非常に多い。例を挙げると、アインシュタイン河井ゆずるや、ミキの亜生などがいる。

   しかし彼らのように容姿が優れた人以外でも、”お笑い芸人がモテる”というのは昔からよく聞く話である。私は川西氏に注目するようになって以来、そこから派生して他のいろいろなお笑い芸人も見るようになった。そして、私は”お笑い芸人がモテる”ということに納得した。その理由を述べていきたい。

 

①話し上手、盛り上げ上手

   お笑い芸人は文字通り笑いを生業としている。自分の行動や発言で笑いを誘発する彼らが喋りを苦手としていては話にならない。彼らはプライベートで女性に会うときも持ち前の話術で相手を楽しませているはずだ。1対1でも合コンでも、しっかり自己アピールをした上で場を盛り上げ、多くの女性を惹きつけるのだろう。

 

②「身近さ」と「珍しさ」の二面性

   言うまでもなく、お笑い芸人は芸能人である。芸人という職業の性質上、人から虐げられたり体を張ったりする場面は頻繁に目にするため、どうしても少し格が下がる印象は受けてしまうが、それでもれっきとした芸能人である。しかし、劇場での出待ちや地域でのイベントなど、俳優やジャニーズなどと比べると、近い距離で会うことが叶いやすい。そんな彼らは、芸能人という「珍しい」存在でありながら、「身近に」会えるという二面性を持っている。きっとこのハイブリッドに惹かれる女性は多いのだろう。

 

③危うさ

   お笑い芸人に限らず、芸能人という職業はある種の水商売である。冒頭で言及した和牛のように、絶大な人気を誇っている間は安定した収入を得ることができるが、その人気がいつまで続くか予想することは不可能であり、世間の人々の興味が失われたときには仕事量が激減し、それに伴って収入も減る。特にお笑い芸人は一時的に人気を獲得しても、飽きられて注目されなくなるということが多い。

   先日、私は新宿の劇場に漫才を見に行ったのだが、知らないお笑い芸人が前説を担当していた。そのうちの1人が、「先月の吉本からの給料が8000円だった」という自虐で観客の笑いをとっていた。もちろん話を脚色している可能性はあるが、本当の給料が8000円より多いとしても僅かな額であることには変わりないだろう。そして、どんなお笑い芸人にもこのような状況に陥る恐れはいつでもある。

   人生の伴侶とするには安心できないが、ある程度の責任が伴わない恋人とするならばこの危うさがむしろ魅力的に映る。女性は彼らの危うい立場を見て、「私が支えなければいけない」という使命感に駆られ、そしてそのうち彼らを支えることで自己肯定感を高めるようになる。生活の大半を彼らが占めるようになり、離れがたくなっていく。

 

④ひたむきさ

   基本的にお笑い芸人は「自分達が一番おもしろい」と思っており、自分達にとって「一番おもしろいもの(ネタ)」を届けるために日々ひたむきに努力を重ねている。どんなに滑っても、失笑されても、彼らは人々を笑顔にしたいという一心で、ネタを考え、練習し、時には相方とぶつかり合いながら作品を作っていく。このひたむきさに心を奪われ、母性本能をくすぐられる女性は少なくない。先程述べた「危うさ」と相まって、自分が支え応援したいと強く思わせる要素である。

 

   以上が、私が以前よりお笑い芸人がモテると考えていた理由である。もっとも、私は川西氏の容姿に惹かれた身なので彼の内面の理解までには至っていないが、彼を「好き」だと公言する以上、より彼の内面も知る必要があると考えている。川西氏の「容姿にだけ惹かれた」ファンが「ペラペラファン」と揶揄されるように、笑いを生業とするお笑い芸人を容姿でだけ判断するのも考えものである。

   また、人が人を好きになるということに他人があれこれ言う資格はないが、自分が一ファンとしてお笑い芸人に本気で恋をし、愛してしまった場合には、極端に言うと不毛で危険な恋に片足を突っ込んでいる自覚を持つ必要がある。個人的に、恋愛感情は理性を容易に超えると思っているので、抑制しきれないほど強く彼に心惹かれているのなら、だからこそ彼に迷惑のかからない範囲で愛情を注いで欲しい。度が過ぎた応援はただでさえ気を緩める時間が少ない彼らの貴重なプライベートを奪ってしまうし、そもそも自分の強い恋愛感情に基づく行動は応援の皮を被ったエゴに過ぎない。

   多くの女性がお笑い芸人に惹かれるのは納得できる事実だが、あくまで常識の範囲内で各人がお笑い芸人という生き方を心から応援して欲しいと切に願う。

 

 

【私が男女グループで日帰り温泉に行くことに反対する理由】


   以下は、私の友人の男性が、私を含めた共通の友人7人で温泉に行くことを企画し、メンバーの日程が合わず当初予定していた宿泊が厳しくなった際に私が提示した小レポートである。

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【男女グループが日帰りで温泉に行くメリットがない理由】

●そもそも男女グループで温泉に行くとはどういうことか?

   日本の温泉はほとんどの場合男湯と女湯が分かれている。そのため男女で温泉に行った場合、それぞれが温泉の心地よさを感じることはできるが、 同じ空間および時間にそれを共有することは不可能である。


●私が男女で日帰りで温泉に行くことに反対する理由

   以上の条件から、わざわざ男女で温泉に行った際の価値付けは、当然ながら温泉に入っている以外の時間の過ごし方に依存する。具体的には、温泉施設周辺の観光や食事時間などである。しかし、日帰りで温泉に行くならば時間は非常に限られているので、行動の主軸を温泉に置くのは自明であり、思い出作りのためにただでさえ少ない時間の中で温泉の時間を削るのでは本末転倒になる。そして温泉をメインで楽しむと、当然ながら男女で分かれて過ごす時間が増え、あえて一緒に行く意味が見出しにくくなってしまう。

   一方、宿泊を伴う場合を考えてみよう。宿泊すると、当然日帰りよりも時間に余裕があるため、温泉以外に観光はもちろん、部屋での娯楽など充分な思い出作りが可能である。さらに寝食を共にすることで、他者の生活態度を垣間見ることができる。普段遊んでいる姿とは違う様子が、宿泊を伴うイベントで見られるのはよくあることだ。相手のことをより深く理解することができ、その後の交流においても参考になる。

   このように、宿泊で温泉に行くことには多くのメリットがある。一点だけ懸念があるとすれば、男女ということから周囲に配慮することなく褥を共にする不届き者が少なからずいるということである。

   結局私が言いたいことは、「男女が行く日帰り温泉」という行動は、「温泉」と「一緒に出かけたことに伴う思い出作り」の両立が困難で、ある種の矛盾を孕んだ存在だということである。


●代替案

    第一に、温泉という要素を残したままの代替案を提示する。

①行き先をユネッサン(箱根)にする

   ユネッサンは水着着用で楽しむことのできるリゾート施設で、男女が同じ空間で同じ時間を過ごすことができる。

   しかしGWに行くとなると確実に混んでいるので充分に満喫できるかということに関しては懐疑的である。


   次に、温泉以外の代替案を挙げる。


②飲み会(ないしはその他の娯楽)にする

   ここまで書いてきたように、日帰りではわざわざ男女で温泉に行ってもコストパフォーマンスがいいとは言えない。そこで、男女が無条件に楽しむことができると考えられる飲み会、ないしは他の娯楽(カラオケ、行楽地での観光など)行うことを提案する。

   ちなみに、行楽地での観光はGW中ということで非常に混雑している可能性が高い。飲み会やカラオケは事前に予約しておけば比較的GWに伴う混雑とは関係なく楽しむことができると考えられるが、内容の新鮮さに欠けている。


●他人と温泉に入るということ

   余談だが、温泉に入るということは、人前で裸を見せるということでもある。たとえ同性同士でもこれに抵抗がある人はいる。2018年に行われた、全国20~60代の男女1537名を対象としたアンケートで、「友人と温泉に入りたくないか?」という質問に対し、31.9%が「入りたくない」と回答している。      

   この結果からもわかるように、人と温泉に入ることを、相手との関係を問わず忌避する人は一定数いる。これを考慮せず温泉に行ってしまうと、日程の最後まで人と温泉に入ることに抵抗があることを言い出せず、一緒にいながらもグループ内で気持ちに温度差が出てしまう可能性がある。そして最悪の場合、その後の人間関係に悪影響を及ぼす恐れもある。

   このリスクを回避するためにも、代替となる娯楽を複数考える必要がある。

   他人と温泉に入ることの心理的負担に関しては、今回のテーマに据えた「男女で行くこと」とは逸脱しているが、充分な配慮が必要な点と判断し掲載した。


●総括

   私は幼少期より温泉に慣れ親しんできて、個人的にも頻繁に足を運んでいる。この経験から、「温泉は時間をかけてゆっくり堪能するもの」という認識がなされている。そのため、男女でわざわざ日帰りで温泉に行き、温泉以外の思い出作りに時間を費やすのは非生産的であると考えている。今回、温泉を重視しているのであれば、多少日程が合わないメンバーがいても宿泊して温泉を楽しむべきであり、良好な人間関係の構築を目的とするならば他の娯楽を企画するのが無難である。



Gimmick Game


世間の人々は、「愛の形は人それぞれ」と口々に言う。近年同性愛がオープンなものとなり、同性愛者に対する過剰とも言える配慮がなされているのも、始まりはきっとこの言葉だ。何事も美談にしたがる日本人はこの類の言葉が大好きで、同性カップルSNSで結婚式をしたと写真を添えて投稿すれば、瞬く間にそれが拡散され、賞賛の嵐を呼ぶ。そして2人の決断に勇気づけられたとコメントを残す。結局誰もが”異端”に同調する自分を見て欲しいだけだ。本当に「愛の形は人それぞれ」と思っているなら、たとえ同性カップルの結婚を目にしたとしてもいちいち騒ぎ立てず、ごく普通に祝福するはずだ。わざとらしいほど反応し、大げさに感動するのは、それが”おかしい”と心のどこかでは思っているからだ。おかしいと思っていないなら、最初から同調する必要もない。


やっぱり、「愛の形は人それぞれ」なんて嘘だ。どんな愛でも許されるならば、私の愛し方だって問題なく世間に受け入れられる。嘘をつきあっても、これだってれっきとした愛の形なのに、きっと人々は眉を顰め陰口を言う。みんな”寛容”というアイデンティティーを獲得して、自己顕示欲を満たしたいだけだ。いつものように彼に見下ろされながら、私はそんなことを思った。

「…いま、何を考えてる?」

「…別に…」

あなたはそれ以上追求しようとせず、長い指で私の身体を撫でた。その指は果てしなく汚い。なんて虚しい行為なんだろう。人目を忍んで逢瀬を重ねても、浴びせあうのは溶けるような睦言ではなくあまりに感情的な接吻と愛撫だけだ。ただ欲望をぶつけ合うだけで、甘さも慈しみも何もなかった。それでも、私は現実なんてものに蓋をして、ひたすらそれを愛だと信じて疑わなかった。たとえこれがただの”騙し合い”による虚構だとしても──


いつから歯車が狂い始めたのかはもうわからない。あなたの首筋の嘘に気付いてしまってからは、お互い愛し合うふりだけをしていた。

今の私とあなたの関係はせいぜい、所謂セックスフレンド、セフレがいいところで、それ以上になることなんて有り得ない。会いたいとか寂しいとかそれっぽい誘い文句で呼び出してくるけれど、本当のところは人形のように抱かれ、欲望を吐き出されたらそれで終わりだ。終わった後は優しいふりをして私を抱きしめるくせに、目が覚めたときにはもういない。そこにいたのだという痕跡も余韻も、何も残さない。抜け殻のようなシーツに顔を埋めてみても、ブルガリ・ブラックの香りはしない。独特な気怠い匂いの上で虚空を眺めるしかなかった。

あの人の首筋はいつも嘘だらけだ。違う誰かを抱きしめた腕で私の手首を押さえつけてくる。自分の痕跡は跡形もなく消すくせに、ベッドの上のあなたはいつもGUCCIのバンブーの香りがする。官能を直接刺激するような香りが、私ではない誰かの存在に成り代わって私を嘲笑う。


「……君しか愛せないよ」

「………」

ここまで見え透いた嘘があるだろうか。あなたは使い古された台詞を吐いて、身体に朱を散らしただけで私を縛り付けてるつもりなんだろう。私の首筋にもある嘘にも気付いていないくせに。消えかかっているそれを自分のものだと思い込んで必死に上書きしている姿はあまりに滑稽だ。

でもそれ以上に、こんな不毛な関係にありながらまだあなたのことを好きでいる私の方が滑稽かもしれない。あなたのことをまだ好きなくせに、あなたと同じように平気な顔で他の人にも生まれたままの姿を晒している。そこにも愛情なんて欠片ほどもなくて、だけどその時間だけはあなたを好きだってことを忘れられるような気がした。


「…どうしたの?」

「………」

「…俺だけ見てよ」

その言葉、そのままあなたにあげたい。私の心はずっとあなたしか見ていない。集中していないのはいつだってあなただ。

「…痛いの?」

繋がっているときに涙が出るなんて初めてだった。普段ならあなたに見下ろされながら痴態を晒すけれど、積み重ねた空虚な時間に押し潰されそうになった私は、あなたの肩口で小さく喘いだ。

今さら何が悲しいというのか。お互い愛してるふりして身体を重ねても、そこには何もないとわかっているはずだった。涙なんて流しても、なんとなく”それっぽい”感じになるだけで無駄だ。

「…泣かないで」

あなたが私の涙を拭う。拭うあなたが、他ならぬあなたが私の頬を湿らせていることもわかっていないかのような素振りだった。


思い詰めたような表情で抱き寄せられる。愛されていると錯覚するほど優しい抱擁だった。

「…もう、やめにしようか」

心のどこかでこの言葉を待っていた。少し涙を見せただけでこんな言葉を引き出してくるほど私のことをわかっているのに、あなたが私のいる世界だけを生きることはない。嘘で塗り固めた鎧を身に纏って強がっても、簡単に壊されてしまうほどあなたのことが好きなのだと今さら気付く。もう遅かった。出会う世界を間違えてしまったのだ。無理矢理作り出した偽りの世界で壊れた時間を過ごした。そこに戻ったら何かわかることはあるんだろうか。

私の沈黙を肯定と捉えたあなたは、置き土産とばかりに口付けをする。舌を乱暴に絡めるだけの獣のようなキスでなく、労わるようなキスだった。


「……ごめんな」

見たことのない眼差しで私を見つめて、あなたは部屋を出て行った。私の心も思い出も、何一つ持って行かずに。グレーのスラックスに包まれた脚は相変わらず長くて美しかった。清らかな足並みを揃えるはずだったあの脚は、私と他の知らない誰かが残した痕だらけなんだろう。でももう、あの脚は私の元へは二度と戻ってこない。”永遠の別れ”なんて陳腐な言葉であっさり表現できてしまうほど呆気なかった。


銀座コリドー街で涙越しに見える景色は、ネオンが光っていてもかえって儚く、それでもうんと美しく見えた。それは私がこんなだらしない愛し方しか知らないからだろうか。

「一人なの?」

不意に声を掛けられた。簡単なことだった。出会いを求める夜の男女の街で寂しいふりして涙を流していれば、またすぐに騙し合いが始まる。

「……はい」

「…忘れさせてあげるよ」

迷いもせず私は新しい世界に身を委ねる。空っぽになった心が満たされるような気がした。どこの誰かも知らない相手と夜の闇に紛れれば、あなたの温もりも消えてくれると信じていた。そして胎内で欲望を感じれば、あなたの存在を過去の笑い話にして終わらせられると思った。


きっと私は、ずっとこんな溜息の出るような生き方しかできない。知らない男の腕の中で、”元彼を忘れられない”なんて子供みたいな言い分で、悲しい自分に涙を流した。

それなのに、その瞼の裏にはやっぱりあなたがいた。



君だけが秋めいていた


図書館から一歩外を出ると、肌を焦がすような暑さと共に、競うような蝉の鳴き声に襲われる。もう立秋から1ヶ月以上過ぎているのだから、間違いなく今は秋のはずだ。それなのにこうも暑く蝉が煩いと、季節が半ば意固地になって夏にしがみついているのだと想像してしまう。

夏と不可分な蝉の大合唱には毎年本当にうんざりする。日本人の、いや人類のほとんどがまいっているに違いない。ところで、蝉がこんなに鳴く理由は子孫繁栄のため、雄の蝉が雌の蝉に自分の居場所を知らせるためだという。早い話が求愛行動だ。僕は蝉の鳴き声を鬱陶しいと思いつつも、人間も蝉と同じように、想う相手に自らの存在をこんなにも強く主張できたならどんなにいいだろうかと羨む気持ちも抱いた。正確に言えば、想い人に対して強く主張できない自分を悔いた。彼女を想う長さと彼女との関係は全く比例していない。しかし今さら一歩踏み出す勇気もなく、情けない僕はそれら諸々の事情を全て暑さのせいにした。もはやまともな思考回路などないように思えた。


校舎を後にして駅前のバスターミナルまで歩く。自分が乗るバスを探していると、人混みの中で華奢なシルエットを見つけた。彼女も僕と同じようにバスを探しているようだ。僕は動揺してキョロキョロしてしまう。そうこうしているうちに、遠くにあるぱっちりした目が、僕の落ち着かないそれを捕らえた。彼女は驚いたように微笑み、手を振ってそばに寄ってきた。小動物のようでとても可愛らしい。


「谷原くん」

「久しぶりだね、雛形さん」

おそらく最後に言葉を交わしたときからある程度の時間が経っている。彼女─雛形さんは少し大人びた気がする。といっても見た目は変わっていない。雛形さんは小柄で、どちらかというと童顔なので、高校生だと言っても充分通用するだろう。それなのにいま向き合っている彼女は、どこか大人の色香さえ纏っているように感じた。


「暑くないの?」

僕がこう言ったのは、彼女が季節に不似合いとも言えるグレーのカーディガンを羽織っていたからだ。彼女の大人びた雰囲気はこれのせいかもしれない。僕の青い半袖シャツと比べると、余計に。

「暑いけど、冷房効いてるところ入ると寒いじゃない?だから結局ずっと羽織ってるの」

夏の間に何かあったのだろうか。彼女の雰囲気が変わったのはきっとグレーのカーディガンだけが理由ではない。端的に言ってしまえば、彼女は恋をしたように思えた。そしてその気持ちの方向が、僕の気持ちに対してねじれの位置にあるだろうということもなんとなくわかる。

三者がいたならば、一瞬の間にあれこれ思い込みすぎだと笑い飛ばすだろう。だが僕は至って真剣にこれらの結論を出した。


「夏休み、どこか行ったりした?」

答えからいろいろなことを推測できそうな質問を絞り出すように投げかけた。

「どこも。気になってる研究室の先輩に何回か会っていろいろ教えてもらったぐらいよ」

“気になってる”は、”研究室”と”先輩”のどちらを修飾しているのだろうか。こんな些細なことにいちいち引っかかりを覚えてしまう自分がつくづく嫌になる。

「…そうなんだ。もう研究室のこと考えてるなんてすごいな」

「院って結構繋がりが物を言う、とか聞くじゃない?まあそういうのも考えて、ね」

「どうだった?その先輩は」

僕は卑怯な言い回しをした。あくまで研究室の話を聞きたがっていると見せかけて、雛形さんがその先輩についてどんなことをどんな様子で話すのか探ろうとした。

「すごく親切にたくさん教えてくれたの。安西さんっていうんだけど、未解読文書の解読についてとか、活版印刷術のこととか私が知りたいことをなんでも知ってて、すごく楽しかった」

そう話す彼女の目は心なしか輝いているように見えたし、頰がほんのり朱に染まっていた。これが俗に言う”恋する乙女”ってやつなんだろうか。彼女を恋する乙女にしているのは間違いなくその安西さんとやらだ。恥ずかしくて口が裂けても言えないが、僕がその存在になれないことがどうしようもなく悔しく、悲しかった。

「…へえ。それはよかったね」

落胆を声に滲ませないように努めた。それはつまり敗北を認めたということで、余計に惨めになる。

「本当に楽しかった。今度飲みにも連れて行ってもらうの」

そう言った雛形さんは本当に嬉しそうで、可愛かった。女性は恋をすると美しくなる、とはよく言ったもので、雛形さんは僕が知っているよりずっと綺麗になっていた。皮肉なことに、彼女が僕ではない人に恋をすればするほど彼女の魅力は増し、僕の叶わぬ想いは強くなる。神様は意地悪だ。

「あ、私もう行かないと…こんな暑いところで長々と話しちゃってごめんね。じゃあまた」

会ったときと同じように小さく手を振り、雛形さんはまた人混みの中に消えて行った。僕はそれをどんな顔で見送っているのだろうか。その表情を表現する言葉は、きっと地球上に存在しない。

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今日も相変わらず蝉が煩い。もう9月も終わるということをわかっていないのだろうか。さらに悪いことに、この時期になると瀕死の蝉が地面に倒れていて見た目では生死の判断がつかず厄介だ。倒れている蝉を死んだと思って少しでも触ると突然暴れ出すのは心臓に悪い。早くいなくなって欲しいと願っていた。


逃げ込むように図書館に入り、目的地である5階の図書館研修室へ向かう。課題で使う日本目録規則を取りに行くのだ。なぜ1階のレファレンスカウンターに置かずわざわざ5階に置くのか理解できなかったが、とりあえずそれがないと課題ができないので致し方ない。5限も終わったこの時間になっても図書館研修室にいる物好きはいないだろうと、何も考えずにドアを開けると、そこには予期せぬ先客がいた。

「…………」

僕が何も言わず静かに部屋に入ったのは、その先客が机で眠っていたからだった。

そっと覗くと、机の上にはグーテンベルク聖書についての学術書がいくつか並んでいた。机に突っ伏しているから顔は見えないが、見なくても誰なのかわかる。雛形さんは普段からグーテンベルク聖書に並々ならぬ関心を持っていたし、椅子の背にはあのグレーのカーディガンが掛けられていた。

当然ながら、雛形さんが寝ている姿なんて目にしたことがなかった。あまりに無防備な姿にドキリとしてしまうのは男の性だ。

思わず手を伸ばしてしまう。しかしその手はすぐに引っ込められた。

僕をそうさせたのは彼女の首筋だった。白い首筋に一つだけ血のように紅い花が咲いていた。それが何を意味するのかわからないほど僕も子供ではなかった。

その花は彼女が誰かの所有物であることを生々しく主張し、またその誰かと彼女の間にそういう熱があったこともまざまざと見せつけている。薄々わかっていたことなのに受け入れることができず、経験したことのないような激情が行き場を失う。

どうしようもない感情を抱えたまま僕は部屋を出た。あのままでいたら僕はきっと感情に流されて過ちを犯す。そんなことはしたくなかった。素知らぬ顔をしてあの紅い花のことは忘れてしまえば、ずっと燻っているこの気持ちにも終止符を打てる気がした。現実にはそんなことできるはずがなくても。


外に出ると、やはりまだ蝉は煩い。蝉にはなれないまま、これから太陽がよそよそしくなり、季節が過ぎ去っていっても結局この想いを終わらせることはできない気がした。きっと僕は来年も蝉になれない自分を恨んでいるし、君のことをまだ好きでいるだろう。成長のない僕を取り残して、雛形さんはいくつもの季節をあの人と過ごしてもっと美しくなる。それでも、僕はいつまでも夏なのだろう。ずっと半袖シャツのまま、僕の時間は止まっている。


それなのに、君だけが秋めいていた。肌に感じる風がどうしようもなく切なかった。